大谷石地下採掘場跡

地下空間の利用



中島飛行機(現 富士重工)大谷地下工場
 太平洋戦争の終頃、この大谷地区には、日毎に激しくなる米軍機の爆撃を避けるために、疎開して作られた大地下航空機工場群がありました。一つは中島飛行機(株)宇都宮製作所 城山機体工場と、もう一つは、中島飛行機(株)武蔵製作所大谷発動機工場です。宇都宮製作所は1942年(昭和17年)に、武蔵製作所は1943年(昭和18年)に地下工場の準備に入りましたが、操業が開始されたのはそれぞれ、1945年(昭和20年)3月からになりました。
 この城山及び大谷工場は日本全体で約100あまりあった地下工場の中で最も優れた設備をもち、最も大規模な地下工場でした。当時の地下工場面積の第1位は、横須賀海軍航空工廠で広さは約112,500Fすが、第2位の城山工場(約99,900F)と第5位の大谷工場(約86,700F)を合わせると、広さは最も大きな地下工場となります。また、この両工場には、正規従業員(約8,900人)・微用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人など合計すると約15,000人の人達が、勤務していたと言われています。
 城山機体工場では、陸軍四式戦闘機「疾風」(日本側略称キー84、米軍名フランク)の機体及び部品が生産されましたが、この大谷資料館地下は、城山機体工場の金入山作業所と呼ばれ、工作機械・熱処理部門の工場になっていました。なお、大谷発動機工場では、疾風に装着された発動機である、ハー45・12型・18気筒エンジンの部品生産と組立が行われました。
 戦争中は大谷地下工場に対する空襲は1回もなく、1945年8月15日ポツダム宣言受諾により太平洋戦争は終結を迎えました。それにともない、大谷地下工場も約5か月という短い生産活動の幕を閉じました。その後、接収に訪れた米軍関係者も、終戦までこの地下工場の存在は全く気付かず、その規模の大きさに驚いたそうです。
       地下工場の見張りやぐら   疾風の星型エンジンケース   疾風と思われる機体 


「疾風」写真提供:Hobby Kitsの(株)長谷川製作所様(静岡県焼津市)

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